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大淀祇園祭概要
祇園祭は、全国に疫病が流行した貞観十一年(869年)に祠司(しし=宮司の一種)・卜部日良麻呂が勅を奉じて旧暦六月七日に長さ二丈の鉾を作り、旧暦の六月十四日に神輿とともに京都・神泉苑に送ったのがその起源だと伝えられています。
大淀の祇園祭は江戸の中期、今から二百七十年ほど前に疫病を払い氏子安全、農・漁業の発展を祈る民間信仰から始められ、京都の八坂神社、愛知の津島神社の流れをくむものだといわれており、祭神は須佐之男命です。
祭りには前夜に東区で、当日は三世古(北区、中区、西区)と山大淀で山車(だし)がそれぞれ曳かれます。また、三世古では数年前から約半世紀ぶりに復活した神輿が登場して、山車は地元青年団の若者たちに曳かれ、神輿は小学生たちに担がれそれぞれの区内を練り歩きます。
三世古の山車は、午後五時ころに大淀港満潮時に合わせて、幟(のぼり)や提灯で飾られた「なりひら」「ゆきひら」の二隻の船に乗せられ海上渡御の儀式を行います。
◎ある記憶<海上渡御について>
昔は七屋とジュウヨム屋が交互に船に乗せてました。
理由は二隻同じ船が必要で、網元である二軒が用意しやすい事、乗子が多い事だと聞いた事があります。
少なくとも明治時代には海上渡御はしていると思います。 明治39年生まれの祖父が、花火にしても海上渡御にしても昔からしていると言っていた記憶があり、祖父が物心ついた頃は実施していたのでしょう。 ちなみに、祖父には10歳違いの姉がいました。姉もまた祇園祭の好きな人だったので、おそらくそんな話を家や友達同士でした事もあると思いますので少なくとも明治時代のいつ頃かは分かりませんが実施していたと思われます。
祇園祭巡行は、三世古・山大淀それぞれの地区で若干の違いは
ありますが、先頭には天狗が配置され、この天狗は猿田彦の命
の化身とされ道案内の神・道開きの神として最前列に位置します。
この役は山大淀では13歳、三世古では16歳の男の子がそれ
ぞれの役に付きます。その次には山大淀では神木・役員・一万度
と続きますが、三世古では神木はなく役員は山車に乗るので
一万度(いちまんど)が配置されます。
この一万度は厄年の24歳の男性が役に付きます。
続いて山大淀では乙姫・傘鉾(かさぼこ)・幟2本が配置されますが、三世古では大幟(17歳)2本・傘鉾(7歳)・小幟(7歳)となります。この傘鉾にはたくさんの折鶴が飾られ山大淀では8歳、三世古では7歳の男の子が役に付きます。
これら巡行は天狗(道開きの神)を先頭に威儀物(神の威厳を表す標としての飾り物)である一万度・幟・傘鉾などで祓い清めながら練り歩くことになります。実際の巡行には助人(すけにん)と呼ばれる大人(1~2人)が付き、役の子ども達と一緒に巡行します。
そのあとに大勢の曳き手に曳かれた山車が続きます。
但し、東区では簡素化され巡行には天狗や威儀物はくわわらず、城山(大淀城址)に幟などが固定され飾られます。山車は青年団が主となり囃子方・梃子方(青年団OB)・曳き手とそれぞれが役割を分担し練り歩きます。。
囃子方とは文字通り山車の中で囃子を奏でる役の人たちで太鼓2~3人、笛7~8人を青年が担当し、すりがね(チャンギリ)を小学生3人が受け持ちます。
囃子の曲は数曲あるのですが、現在ではそのうち何曲かは途絶えてしまった曲もあります。
梃子方は出車の舵を取る役で、前後左右に2人の8人とカケヤ(輪止め)が左右1人づつの計10人で行います。近年は青年の人数が少なくなってきており、青年団OBが助人として入ることが多くなってきました。
曳き手は子どもから青年団、青年団OB等が参加します。また近年では女性の姿が多くみられるようになってきました。これらの人たちを青年団幹事や評議員たちが指揮して巡行が行われます。
三世古では中学2年生の男子が小使いとして青年団の手助けをするほか十九娘が傘木の折鶴を折ったり法被(カンバン)の修理をしたり、またおにぎりなどをにぎったりもします。
また、海上渡御の船を操作する船組(10人)と呼ばれる人たちがいるのも三世古の特徴です。
それぞれの役の人たちまた青年団にせよ、若者たちが担います。これはより穢れのない者の手によって行われることを意味していて、あらためて祇園祭は神事だということが伺えます。
今も三世古では6月の中旬に青年団の若者たちが、
浅間参りの衣裳に身を包み先達(富士参り経験者)を先頭に
神社から港まで行列を組みながら進み、大淀港内の
大海神社前で笹をさして船上でお参りをして神社まで帰る
という儀式が行われてます。
その昔は大淀港から船で清水港(静岡県)まで行き、
そこから富士山頂の浅間神社にお参りして、富士山
の石を持って帰ってきたそうです。今も浅間石として
神社に奉納されております。
つまり祇園祭行列巡行は、字・区内を祓い清めながら
疫病退散・五穀豊穣を祈りながら練り歩くことに意味
があります。
続いて数千発の打ち上げ花火と六基の仕掛花火が水面を彩り、夜空を焦がす大淀花火大会の始まりです。
仕掛花火は地元で「花火委員」と呼ばれる人たちが長年伝えられる大淀独自の秘伝・綱火(つなび)と呼ばれる遠距離の導火線を駆使して見物客の眼をうならせます。
花火大会は、明治40年ころから始まりその頃は堤防がなかったため浮島であった弁天さんや竜宮さんで打ち揚げていました。そこに花火の筒等を運ぶ役割を担っていた中州(なかず)
と呼ばれた役がありました。年齢的には小使いより年長者だったようです。
現在では陸続きになったので、この役もなくなってしまいました。
この大淀祇園祭は私達地元に暮らす人の胸を躍らせ、心を癒すいわば「大淀の文化」(こころいき)です。
見物広場には、露天商が並び、昔ながらの祭りの風情をかもし出し、大いに祭りの気分が味わえます。
大淀の地名の起こりは昔、倭姫命がこの地の海を渡られるとき、大いに淀んでいたから、この地に大淀の社をお定めになり、それが地名となって「おおよど」と呼ばれるようになりました。
江戸時代中ごろから「おおよど」を訛って「おいず」と呼ぶようになり、現在は日常「おいず」という呼び名が使われています。
伊勢物語や古い和歌には「おおよど」という地名がよく出てきます。
特に伊勢物語の主人公、在原業平と斎王(恬子内親王)との有名な恋物語の舞台がこの「おおよど」であり、伊勢物語ゆかりの地であります。
互いに恋心を抱きながらも大淀の松(現在の業平松)の下で、互いに心のうちを詠みかわし、別れた業平松付近が「大淀花火大会」の主会場となっています。
また、斎王が禊をなされたところは尾野湊(おののみなと)といわれておりますがこれは大淀の海でありました。
(取材協力:森 福男さん、辻 清裕さん)
三重県中南勢エリアを47のストーリーで紡ぐ旅ウェブサイト
「Storyで紡ぐたび ~もののあはれ中南勢ものがたり~」にて紹介されていますので、ぜひご覧ください。
〇夏祭り:大淀祇園祭と花火大会 | Storyで紡ぐたび ~もののあはれ中南勢ものがたり~
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